【義烈空挺隊慰霊碑 参拝】


政治塾の翌日に沖縄県読谷村にある
義烈空挺隊の慰霊碑に
参拝してまいりました。
ここはかつて沖縄北飛行場と呼ばれた
2000メートルの滑走路2本擁する
沖縄最大の飛行場でした。
当時の面影はほとんどありませんが、
唯一掩体壕が残っています。
これは1943(昭和18)年
沖縄北飛行場建設時に軍用機を
保護する施設として建設されたものです。

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沖縄戦が始まると読谷村の海岸から上陸した
アメリカ軍は、「北飛行場」の制圧を目指して進軍を続けます。
日本軍はアメリカ軍に使用される前に
自ら破壊して撤退しますが、
上陸した当日に北飛行場を制圧されました。
飛行場を制圧したアメリカ軍は
本土爆撃にこの北飛行場を使用します。
皮肉にも日本軍が作った飛行場が、
日本軍を攻撃するための飛行場と
なったのです。
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その北飛行場を奪還するために
取られた作戦を実行したのが
熊本から飛び立った「義烈空挺隊」です。
アメリカ軍に占領された飛行場に
たった12機で強行着陸をし、
飛行場を破壊する作戦でした。
その義烈空挺隊の慰霊碑が
この掩体壕の残る場所にあります。
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ほとんど人の訪れない
ひっそりとした場所にあります。
しかし、私たちの世代でもしっかりと
顕彰していかなければなりません。


今年の夏に、奥本康大さんを中心に
義烈空挺隊の顕彰碑が熊本の健軍神社内に
完成しましたが、その際、寄稿させて
いただいた文章を転載いたします。
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【義烈空挺隊 顕彰碑建立に寄せて】
熊本県議会議員をさせていただいております、高井ちとせと申します。
この度の義烈空挺隊 顕彰碑建立に寄せて、まずはこれまでご尽力いただきました皆さまに心より御礼申し上げます。
自己紹介も兼ねてお話しさせていただきますが、私が政治を志たきっかけは、若干24歳で大東亜戦争で命を落とした私の大叔父のことがきっかけでした。大叔父は私の祖母の兄になりますが、私が幼少期の頃から、祖母は自身の兄のことを度々話てくれました。当時、結婚もしていない、教師の夢を叶えたばかりの大叔父が、自分の命を懸けてまで護りたかったものは何だったのだろうか。と、考えるようになりました。
そして、「先人たちが命を賭して引き継いで下さった祖国日本が、いま国難とも言える状況にもかかわらず、私は何も行動しなくて良いのだろうか…」と沸々とした気持ちを抱いたことが、私が政治を志した原点です。
私は、熊本生まれ熊本育ちですが、恥ずかしいことに、つい数年前まで義烈空挺隊の方々のご存在を存じませんでした。学校で教わったこともなく、周囲の大人からそのような話を聞いたこともありませんでした。
しかし、いま様々な方のご尽力のおかげで、この義烈空挺隊のご英霊の功績を顕彰しようという動きが活発になっていることを、心から有り難く思っております。
皆さまご承知の通り、義烈空挺隊とは、大東亜戦争末期の昭和20年5月、アメリカ軍に占領された沖縄の飛行場を攻撃するために編成された精鋭の特別攻撃隊です。隊長は若干26歳、陸軍幼年学校出身のエリート、奥山道郎大尉でした。
昭和19年7月サイパンが米軍に占領されたことにより、東京はB29の爆撃圏内に入ることになります。その後B29が飛来するたびに日本の主要都市は火の海となり一般市民の命が奪われます。
これを何とかしなければと考えられたのが、義号作戦でした。既に制空圏、制海権を失っていた沖縄。そこに強烈な対空砲火を浴びながら、強行着陸。B29を焼き払い戦闘能力を奪うという作戦でした。
昭和20年5月24日それぞれの故郷に向かい遥拝し、夕陽の沈む金峰山を背に12機168人が、熊本市健軍飛行場を飛び立ちました。義烈空挺隊の沖縄本島への壮絶なる突入は内外に大きな衝撃を与えることとなり、甚大な損害を受けた米軍は忠烈の凄まじさに畏怖の念を強くしたと言われています。
硫黄島の戦い同様、義烈空挺隊の方々の想いは、
「一日でも米軍による苛烈な本土爆撃を遅らせ、残してきた家族、特に女性や子どもたちを守りたい。そして、それを何とか足がかりにして祖国日本を再興してほしい。」
その一心だったのではないでしょうか。
「無謀な戦争だった」と言われることもあります。
しかし、当時の歴史を見ると欧米列強が跋扈し、アジアやアフリカでほぼ唯一日本だけが
自力で独立を保っていた時代。先人たちが戦っていなければ、私たちは存在しないどころか、アジアやアフリカの国々も独立できず、未だに苛烈な植民地支配が続いていたかもしれません。
また、アメリカ軍による本土爆撃、つまり民間人への大量虐殺は当然、国際法違反であり、ジェノサイドです。これを、命を賭して何とか止めようとしてくださったことを、後世に生きる私たちは決して忘れてはなりません。
私は度々、建軍駐屯地内にある慰霊碑を子供を伴って訪問しています。
手を合わせることで、我々が今生かされていること。そして、私自身、「何のために政治の世界に身を置き、何を成し遂げたいのか。」行く度に、初心を思い出させていただいております。
この度、健軍神社敷地内の建立ということで、いつでもどなたでも義烈空挺隊の御英霊の方々に手を合わせることができるようになります。度々訪れ、御英霊の方々に想いを寄せてくださる方が一人でも多く増えればと存じます。
尊い命を捧げられた御英霊に改めて感謝と崇敬を伝えつつ、義烈空挺隊の方々が飛び立っていかれた熊本の地に住む我々の責務として、次世代にも語りついでいかなければならないと決意を新たにする次第です。
熊本県議会議員 高井ちとせ




